暮らしのカレンダー

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パトリオティックなボタンの起源は?

読了までの目安時間:約 2分

パトリオティックなボタンの起源は?

 

パトリオティズム(愛国心)


パトリオティックなボタンの起源は、1789年のフランス革命の時代。
自由をかちとった国民のレキシが繊細にボタンにびょうしゃされ、
フランス国旗のトリコロールカラーが数おおくつかわれた。

 

1830年の七月革命時にもおなじエスプリのボタンがつくられている。
第二次世界大戦中の1940年代には、トリコロールカラーの連合軍を
象徴するボタンがアメリカ、イギリス、フランスでつくられる。

 

そこにはフリジア帽やロレーヌ十字、フランス国旗や連合軍のガラが
おおくつかわれた。
ボタンは、国民がかくめいの意思をあらわす道具でもあったのだ。

 

その他のボタン

 

ボタンのなかには、判じ物のボタンやエロティックなシーンが隠された
もの、鏡になっているボタン、時計、羅針盤のボタン、カメラが
かくされているボタンなどおもしろいものがある。
男性用につくられた「飾りボタン」もそのひとつ。

 

この飾りボタンはかならずペアになっており、まったく同じか、
もしくは同じテーマにそったものになっている。
いま、飾りボタンをペアでみつけるのは難しいが、ひとつだけでも
とても素敵だ。

 

家族の写真などをいれるロケットになっているボタンに興味が
そそがれます。

こんなものがあったなんて知らなかった!

読了までの目安時間:約 3分

3章 知られざるボタンの世界

 

こんなものがあったなんて知らなかった!

 

「こんなものがあったなんて知らなかった!」という言葉をボタンの
世界ではよく聞く。
わたしたちが何気なくつかっているボタンは、日常生活でヒツヨウ
不可欠なそんざい。


例えばフランスのボタン。
ここにひとつのトリコロールカラーのボタンがある。
キレイだなと思わせるボタンだ。
このボタンはどんな歴史背景のもとにつくられたのだろうか?

 

そこにはフランス革命や世界大戦のような歴史上のおおきな出来事が
隠されているかも?
国のききにチョクメンしたこくみんの愛国心がボタンをとおし
つたわってくるかもしれない。

 

フランスでもよくしられている薩摩ボタンやジャポニスムのボタン。
日本の芸術がどれだけセカイに影響をあたえ、あいされたか。
アーティストのインスピレーションの源であったかを日本のボタンから
知ることができることだろう。

 

小さなボタンひとつひとつに物語がある。
そんな物語がかくされたボタンを紹介する。

 

フェリックス・ブラックモンは

 

ジャポニスムは、日本美術の蒐集家が浮世絵などのしょぞうひんを
パリで展示したことをきっかけに始まった。
フランス人アーティストのフェリックス・ブラックモンは、北斎の
作品などをコピーしたサクヒンをつくり、ヨーロッパでジャポニスムを
とりいれた草分け的なソンザイ。

 

その後、かいこくした日本におおくの芸術家や、サミュエル・ビング、
エミール・ギメなど美術蒐集家がおとずれ、「浮世絵」や「陶磁器」
などが大量にヨーロッパに輸入される。
ジャポニスムの流行のえいきょうをうけ、おおくの日本風のボタンが
つくられた。

 

薩摩藩でつくられた薩摩ボタン


日本のボタンのなかで、最もだいひょうてきなものは薩摩藩でつくられた
薩摩ボタンといえるだろう。
薩摩ボタンのせいさんは1860年代にはじまった。
そのたいはんは折しもはジャポニスムが大流行していたヨーロッパへの
海外輸出をもくてきとしていた。

 

陶磁器のボタンは東京へとおくられ、日本のぶんかをしょうちょうする
モチーフがひじょうに繊細なタッチで描かれた。
一度はていしした生産は、第一次世界大戦後ふっきするが、もっとも
素晴らしいさくひんがつくられたのはやはり、初期のころの作品であったと
いえるだろう。

 

薩摩ボタンにはアヤメのモチーフや鶴のモチーフ、藤のモチーフなどがある。

リーン・ヴォートランは名づけ親?

読了までの目安時間:約 4分

 

リーン・ヴォートランは名づけ親?

 

リーン・ヴォートランは新しいレジンをかいはつし、それにタロセルと
いう名前をつけた。
酢酸セルロースを原料とするプラスティック、タロセルからインスピ
レーションをえたリーンは、鏡をかずおおくセイサクし世界中で
ゆうめいになる。

 

リーンがボタンのせいさくをした期間はそれほど長いものではない。
彼女の想像力と、どんな素材もジザイにあやつる才能はすばらしい
遺産をのこしてくれた。

 

リーンはアクセサリー作家としても有名だった。
白粉箱や鏡などかのじょの作品はいまでもかずおおくの蒐集家にとても
タカく評価されている。

 

リーンのボタンのすべてにサインがはいっているとは限らない。
ときにはよほど注意深くさがさないとボタンの裏にひっそりと彫られた
LVのイニシャルを見落としてしまいそうになるくらいだ。

 

有名なフランスの作家のまごはダレ?

 

フランソワ・ユーゴーは、19世紀の有名なフランスの作家、ヴィクトル・
ユーゴーの孫にあたる人物だ。
1933年、フランソワはアトリエを開く。

 

あふれる才能をいかし、主にオートクチュールのためにボタンを制作し、
戦後はエルザ・スキャパレリやディオールのためのボタンも作った。
かれの妻であるモニックは、夫がつくりだすボタンすべてを必ず1個
ホカンし、せつめいと制作年月日をきちんと書きこんだメモをつけた。

 

家族にのこされたこの素晴らしいアーカイブのおかげで、フランソワの
作品のかずが総計1691個であることを確かめた。
彼がつかったさまざまな素材のなかには七宝もあった。
第二次世界大戦中にカンヌに避難したフランソワは、七宝のぎじゅつを
クシし、「「形」「色」ともに革新的なボタンをつくりだした。

 

その他のアーティスト

 

メダルのクリエーター、銀器職人、ジュエリー作家、イラストレーター、
彫刻家、画家、セラミスト、ガラス職人、デザイナーなど広範囲にわたる
職業のアーティストたちがボタンを制作したことがわかる。

 

しかし、作者のサインのはいっているボタンは非常にすくないもの。
作家がだれなのかを断定するためには、根気よく目印となる証拠を
探さなければならない。

 

作者名がめいかくにわかるボタンを手にいれるには、ボタンのアトリエが
あくオークションで購買するのがイチバン確かなほうほうだ。
そのような機会はマレなもの。
作家がわからないボタンはまだまだのこっている。

 

誰がつくったかわからないボタンがたくさんあるなんて哀しいな・・・
エジプトの古代遺跡みたいにみんなで見つけてあげたいな!

最初にボタンの素材と してとりいれたのは・・・

読了までの目安時間:約 4分

最初にボタンの素材と してとりいれたのは・・・

 

ルシアン・ヴェンゴットも

 

1930年代のとうじょうしたレジンを最初にボタンの素材と
してとりいれたのがジャン・クレモンだった。
化学者だったクレモンはあたらしい素材にためらうことなく
取りくんだ。

 

ルシアン・ヴェンゴットもレジンに興味をもち、クレモンが
1939年に引退するとカレの志をつぎレジンのボタンをつくり
つづける。

 

「種子」「貝」「羽」「ウール」「石」などヴェンゴットは
可能なかぎりの素材をレジンにうめた。
ロジェ・ジャン=ピエールを販売元に1960年代まで制作
活動をつづけた。

 

ヴェンゴットのボタンが人気をあつめるにつれ、他会社も
レジンのボタンをつくりはじめ、かれの作風をコピーする
ことさえ厭わなかった。

 

高品質なヴェンゴットのボタンは留め具のレィジェンの表記
から見分けられるが作者がハンダンできないすばらしい作品の
かずかずこそレジンのボタンの魅力といえるかも。

 

ボタンからはなれたロジェ・ジャン=ピエールは

 

1934年、ロジェ・モデルとジャン・クレモンの2つのアトリエ
のディレクターだった彼はエルザ・スキャパレリと出会い、
イタリア人同士の2人は意気投合する。

 

1939年、スキャパレリの渡米を機にロジェ・ジャン=ピエールは
いったんボタンから離れるがクレモンは亡くなる1949年まで
活動をつづけた。

 

1947年から1954年までロジェ・ジャン=ピエールはフランシス・
ヴィンター社でしごとに復帰する。
彼がアトリエをヴォージュ広場にひらくために退社したとき、
おおくの従業員があとをおい、ヴィンター社ははいぎょうを余儀
なくされた。

 

1962年、彼はモード関係者のぎょうせきをタタえる「ニーマン・
マーカス賞」をジュショウする。
かれの引退後、いちぶのストックを高級ボタン業者、マビーユが
買いとるが、そのマビーユもすでに引退した。

 

「簡単そうだな」とおもうかたもおおいかも

 

アンドレ・モルコは、パリのグラン・ブルヴァールのそばにあった
彼のブティックで、2000年もまだ現役でしごとをしていた。
第二次世界大戦後に、モルコはセラミックのボタンをつくりはじめ、
パリの百貨店や装身具のメーカーにはんばいしていた。

 

ボタンをつくるということを「簡単そうだな」とおもうかたもおおい
かもしれない。
しかし現実には、ボタンにふさわしい素材をつくりだすという試行
錯誤のつみかさねをヒツヨウとするとてもたいへんな作業なのだ。

 

その結果はアーティスティックな存在価値のあるものでなければ
ならない。
アンドレ・モルコはボタンをとおし、彼にしかヒョウゲンできない
世界をつくりだすことに成功した。

 

かたつむりの形のボタンやみみずくの形のボタンなどある。
綺麗なビー玉みたい。

ボタン生産は世界的にアメリカが大半をしめていた?

読了までの目安時間:約 4分

2章 アートとその素材

 

ボタン生産は世界的にアメリカが大半をしめていた?

 

ボタン生産は世界的に、西ヨーロッパとアメリカが大半を
しめていた。
日本でも19世紀以降、おもに輸出用のボタンが数おおく
生産された。
自然素材のボタンはイヌイット民族やアフリカ原住民に
よりつくられた。


オーストリアのルーシー・リーなどの陶芸家は工芸品の
ボタンをつくってきた。
第一次世界大戦後の20世紀初期のパリではじめてボタンと
アートの世界がゆうごうした。
数おおくのアーティファクトたちは、母国のじじょうや
個人的なりゆうからフランスへ移住した。

 

そこに創造のインスピレーションをもとめた。
モードの都、ゆたかな歴史をもつパリで、「作家」「画家」
「彫刻家」「歌手」「俳優」、クチュリエと交流し、
すばらしいボタンをうみだした。

 

「ジャコメッティ兄弟」「スキャパレリ」「ロジェ・ジャン
=ピエール」のようにおなじ母国をもつもの同士のゆうじょう
もクリエーションに結びついていった。
2章では、こうして作られたさまざまなアーティストのボタン
を紹介します。

 

アンリ・アムとは?

 

アンリ・アムは、学生時代をすごしたボルドーに1897年、現代
アート・ソサエティを創立した。
1900年のパリ万博にさんかし、ピカソなどの芸術家としりあった
彼のサクヒンのおおくは、パリ市近代美術館にしょぞうされて
いる。

 

「角」をはじめ、「銀」「木」「カゼイン」などの素材も自在に
つかいこなせた。
白粉箱、櫛をこのみつくったが、その時代のボタンの質のわるさ
に憤慨したアンリは、みずから美しいボタンをつくる決心をする。

 

1919年11月のアール・エ・デコラシオン誌には、「この戦争
(第一次世界大戦)のさなかに、アム氏は1世紀以上わすれ
さられていたボタンやアクセサリーの復活、というあたらしい
試みにいどみはじめた」とかかれている。

 

「果物」「花」「虫」「キノコ」という自然と幾何学模様の
ユウゴウから、1000をこえる傑作がうみだされた。

 

エルザ・スキャパレリのために

 

イタリア出身のデザイナー、エルザ・スキャパレリは、パリで
キャリアをスタートする。
1920年代にザンシンな素材によるスポーツウェアを考案した
エルザのまわりには、前衛アーティストたち、マン・レイや
ダリ、コクトーが集まった。


このモード界とアート界のゆうごうは1930年代までつづく。
コクトーはエルザの1937年秋のコレクションのために、2枚の
「コクトー風横顔」をえがき、パリのオートクチュール刺繍の
工房、ルサージュが刺繍をほどこした。

 

ジャン・クレモンのコクトー風のボタンはスキャパレリの為に
つくられたもの。
2004年の「スキャパレリ」展のさいに、モード・テキスタイル
博物館がしゅっぱんした書籍、「エルザ・スキャパレリ」の
写真からもモード界でのボタンの大切さがつたわってくる。

 

自然とアール・デコの組みあわせであたらしい花の世界をうみ
だしたり、エルザ・スキャパレリのコレクションのために
本物のヘーゼルナッツをボタンにしたりと本気度が凄すぎ!

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