暮らしのカレンダー

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世間(せけん)とは?

読了までの目安時間:約 10分

 

世間(せけん)とは

 
仏教用語であり、出世間(しゅっせけん)とあわせてこの
世を二分して見る言葉であるそうです。
 
移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味だそうで、
日本ではこの用語は一般名化して、「この世」「世の中」
「社会」のことを表す用語として使われていて、転じて歴史
学者の阿部 謹也は日本社会が“Society”の訳語としての「社
会」に当てはまらない性質があるとして、旧来の「世間」の
呼称を採用し、西欧的「社会」との比較研究としての「世間
論」を展開し、「世間」と書いて「よのなか」と読むことも
あるようです。
 

世間の原語であるサンスクリット語のローカ「loka」は

「砕く」という意味の動詞「luj」 から派生して「滅すべき
ものという意味もあるみたいです。
 
このローカに界 (dhaatu) を加えて、ローカ・ダートゥ (lo
ka-dhaatu) といい、世間界の意味でもあり、ダートゥは
一般に構成要素の意味ですが、ここでは範囲とか領域と解
釈すべきであるようです。
 
このローカ・ダートゥは「世界」といわれ、サンスクリッ
ト語では「クシェートラ」(kSetra)ともいわれこの場合は
所有するという意味のクシ (kSi) から派生してクシェート
ラとなるから、所有地・領地の意味の国土であるそうです。
 
世間(ローカ)からラウキカ (laukika)、すなわち「世俗」
の語がつくられ、ローカ自身には別に悪い意味はないが、
迷いの世界として世間を意味する場合が多いそうです。
 
この場合、世間の「世」とは「遷流」(せんる)の意味で
移り変わること、「破壊」の 意味で壊れること、「覆真」
(ふしん)の意味で真実を覆っていることなどと解釈され
「間」は「間隔」の意味で、ものが個々別々に差別化され
てみられることと解釈されます。
 
このように世間とは、本来一味平等であるものに区別を作
って、それにこだわって生活して いるから真実がおおわれ、
無常であり、破滅すべきものと説かれるようです。
 
このような壊れてゆく世界に対して、仏や菩薩のような世
界は、出世間 といわれ、世間をこえた境界といわれ、こ
の意味で仏教でいう世間は、単に物質的なもので はなく、
精神的な境界の意味が、その根本的な立場であるみたい
です。
 
上記の通り、仏は世間から出でた存在であることから、仏
の教え(すなわち仏法)を、出世間法、あるいは如来法(
にょらいぼう)などといい、これに対して、移ろいゆく世
界(世間)の法則に流れしたがうことを世間法(せけんぼ
う、略して世法 - せほう)というそうです。
 
なお、大乗仏教が後世にさらに発展すると、この娑婆にお
ける苦の多い現実世界の中で 仏法を活かすということから、
世法を完全否定せず、世間の法則を肯定的に捉えるように
なったとも言われてます。
 
三種世間ともいい、移ろいゆくこの世の現象世界つまり世間
を3種類に分類したものでこれらの境界が、いわゆる物質的な
ものを含めて、環境一般をも意味するようになると、以下の
三世間が説かれる。
 

大智度論では、以下の名称で説かれています

 
仮名世間(けみょう)とは、衆生世間ともいい、生命のあ
るもの国土世間(こくど)とは、 山河大地など五蘊世間
(ごうん)とは、人間を構成し、世界を構成している構成
要素をいう。
 
これらも五蘊(ごうん)が色受想行識であることから考え
ると、単なる物質的要素でなく、精神的なものを主として
いて、華厳経疏では、以下の3種類を立てるが、3つめは大
智度論とは異なるそうです。
 
衆生世間(しゅじょう)、智度論の仮名世間と同じ器世間
(うつわ)、智度論の国土世間と 同じ智正覚世間(ちしょ
うかく)、仏の世界なお、サーンキヤ学派では、以下の3種
類を立て天上、人間、獣道、この迷いの世界や悟りの世界
について、インド古来の須弥山世界説がもちこまれて解釈が
なされるようになると、元来、精神的存在であったものが、
物質的存在と解釈されるようになり欲界・色界・無色界の
三界を立て、また、地獄などの六道をたてることになるそ
うです。
 
さらに、この三界を迷の世界であるとして、欲界、四悪趣、
四洲、六欲天など最下位の地獄から天界の他化自在天まで
色界、天界の初禅天(大梵天など)から四禅天(五浄居天
や無想天など)まで無色界 天界の四禅定(空無辺処から
有頂天)まで。
 
ところで、仏教もこの世界を物質的世界として説くが、本
意は精神的なものが中心であり 三界説も、欲界から色界へ、
色界から無色界へと、人びとの精神生活の純化の段階を示し
たものと受け取られます。
 
欲界は淫欲、食欲の二欲を中心として生活する者の住むと
ころで、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道があ
り、この天界を六欲天といい色界は二欲をはなれたものの
世界で、衆生の肉体が殊妙であるから色界といい、物質的
な世界だが、実は精神的なものが中心となるから、四禅天
がそれである。
 
無色界とは物質的なものを超えた世界で、それをいとい離
れて四無色定を修めた者の世界で、 高い精神的立場をあ
たえ、無色界の最高のところを有頂天といいます。
 
世間において「有頂天になる」といって、得意の絶頂にあ
ることをあらわすのは、この意味で、 迷いの世界での最高
処にあることからいわれたものであるそうです。
 
なお、大乗仏教では、この三界を離れ、さらにその上に声
聞、縁覚や菩薩、そして仏国土や 浄土があると位置付け、
天台宗などでは迷悟両界をあわせて十界があるとするそう
です。
 
世間・世の中を意味する言葉として『万葉集』では「うつ
せみ(現身)」「よのなか(世間の用例が見られ、「世間」
の用例は45首(作者・年代が確定可能なものは35首)が見
られます。
 
世間とは、自分と利害関係がある相手、もしくは将来的に利
害関係が発生する可能性がある相手を指し、贈与・互酬の関
係、長幼の序、共通の時間意識、差別的で排他神秘性でから
の条件を全て満たしている場合、れを世間と称し、人に価値
と規範を強制する安定し た空間となります。
 
1つでも条件を外していれば、それを空気と呼び、人に価値
と規範を強制するのには、不安定であり社会は、の訳語であ
り、1878年前後に考案された。
 
個人は、individualの訳語であり、1888年前後に考案され
ました。
 
西洋流の法治国家を樹立するために、必要な訳語であり、そ
れ以前の日本には、社会個人はなくあるのは世間と人であった
そうです。
 
社会・個人という概念は、キリスト教の世界観に立脚している。
 

西洋で神と向かい合うのは

個人であり、個人に価値と規範を強制するのは、神であり、日本で
人に価値と規範を強制する のは、世間であり、価値と規範を受け入
れた人には、世間は保護を与えるようになったそうです。
 
1990年代半ばに、日本は米国流の新自由主義を導入しましたがア
メリカ人が、自立した個人と 考えるのは、誤りであり、アメリカ
人は、いざとなったらキリスト教の神にすがり、貧困層が キリス
ト教原理主義に走りやすいのも、そのためではないだろうか。
 
貧富の差が大きいにもかかわらず、公的保険制度さえない米国では、
保守的キリスト教会わゆる福音派)が、救貧運動に走り回り、日本人
のほとんどはキリスト教徒ではないから、神にもすがれないし、今や
世間にもすがれない。
 
神も世間もない丸裸の人が、自分の身を守るために会得した手段が、
「空気を読む」ことであった。
 
相手・周囲の顔色を見て自分の言動の適否を決めることしか、でき
なくなっていた。
 
関連する単語としてKY(空気が読めない)という単語も登場したが、
一般の使用例の増加より一部マスメディア主導で流行語として確立
した経緯があり、"空気を読む"のが正しい事を前提とした批判的な
単語であるという点にも注意が必要。
  
またこの単語以外にも対義的な用例として鈍感力という単語が用い
られる事もあり、単純に空気を「読む」か「読まない」かに対して
正当性を論じることは難しい側面がある。
 
山本七平の『「空気」の研究』では『文芸春秋』(昭和58年8月号
吉田満監修『戦艦大和』)引用しながら戦艦大和内での状況を紹介
しつつ、"「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。
 
一種の「超能力」かも知れない。"と言わしめている。
 
 

マーチングバンドとは?

読了までの目安時間:約 3分

 

マーチングとは行進をすることで

マーチング・バンドとは、吹奏楽活動のひとつの演奏形態
として演奏をしながら、その演奏曲の曲想に合った動きを
加えたもので、音楽と動きの調和のとれていることが望ま
れていす。
 
音楽を通じて豊かな情操を高め、演奏を通じては、音楽を
人に伝える喜びを教えています。
 
そして、バンドの活動を社会に幅広く求め、多くのことを
経験させて、その中で吹奏楽の楽しさを教えるとともに、
豊かな人間形成の一環としてのバンド活動を推進している
のです。
 
こうした中でマーチングは、バンド活動の重要な一部分と
して定着してきました。
その背景には、なんといっても、フットボールのハーフタ
イム・ショーがあり、指導者にも恵まれていたことがあげ
られるでしょう。
 

我が国では、どうでしょう・・・

いまだに、残念なことにマーチングはバンド活動に負担に
なると感じているバンドが、多いように思われます。
 
なぜでしょう、その障害となっている問題はいろいろあると
思いますが、それ以前に次の努力が必要でしょう。
 

教育的意義から見たマーチング

マーチングは、単にパレードをしたり、ドリル・フォーメー
ションを展開したりすることに尽きるものではありません。
そうした華やかな形に現れる要素ばかりではなく、その表面
的なものの裏にある、大事な要素を見落とす事は出来ません。
 
マーチングでは、一つの規律のもとに、自分に与えられたこ
とを確実に果たさなければなりません。
 
誰一人としてギブ・アップ(ごまかし)が出来ず、一つの集団
としての決まりを守る中で、責任感が養われ、そして、大切な
のは結果として形に現れたものではなくそこに至る練習の過程、
指導の方法なのです。
 
 

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